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花は自分が咲く場所を選べるのだろうか?
花は自分が咲く場所を選べるのだろうか?
選べない、でも私たちは選べる。
人生を「自分の思い」で咲かせるための3つの視点
ふと、立ち止まって自問したことはありませんか。
「今の場所で、本当に自分らしく咲き誇れているだろうか?」と。
キャリアや日々の暮らしの中で、ボクたちは自分のいるべき場所や進むべき道に迷いを感じることがあります。
そんな時、道端に咲く一輪の花に目を向けてみてください。
誰に見られるでもなく、ただひたむきに空を目指すその姿は、私たちに人生における大切な何かを教えてくれます。
ちょっとポエムな書き方ですが、ボクの顔を想像せずによんでね。
そんな生き様り花を手がかりに、私たちが自分の人生を「自分の思い」で咲かせるための3つの視点を探求していきます。
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1. 「咲く場所」は選べなくても、「咲き方」は選べる
花はその場で咲くしかない。
たとえそれが日当たりの良い花壇であろうと、
人通りの少ない道端であろうと、
与えられた場所で根を張り生きる。
その姿に悲壮感はありますか?
そこには「道端でも花壇でも、そこで咲くなら咲き誇ってみたい」
静かな決意があるのか。
別に決意も何も、ここで咲くから咲いて魅せる。
その意志だけのような気もします。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉は、
時として諦めや現状維持を促す言葉として捉えられがちです。
その本質は。
それは、変えられない環境を嘆くのではなく、
その制約の中でいかに自分を最大限に輝かせるか、
力強い意志の表れなのです。
環境がどうであれ、自分自身の「咲き方」を選ぶことは、誰にもできるのです。
それが幸と出るのか不幸と出るのか。
それは今はわからないでしょう。
「その時」が来るまでわからないでしょう。
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2. 「選ばれること」が、真の自由とは限らない
道端に咲く花が、ある日誰かに「摘まれる」ことがある。
それは一見幸運な出来事に見えるよね。
キャリアにおける昇進や引き抜き、他者からの高い評価も、
この「摘まれる」という行為によく似ているのか。
認められ、選ばれることの魅力は抗いがたく、
差し出されたその手を取ることで、道が開けるように感じられます。
しかし、その先に待つのが真の自由とは限りません。
摘まれた花は、確かにその場から動くことができます。
けれど、その行き先は自分で決めることができるのか?。
摘まれたら動けるけれど、自分の行きたい場所とは限らない。
途中で捨てられるかも、
生けられるかも。
美しい花瓶に「生けられる」人生。
きれいに飾られ、多くの人から称賛される生き方も、それはそれで良いのかもしれません。
けれど、もし叶うのであれば、やはり「我が思いの中で咲きたい」と願うのが、
ボクの心の奥にある本質だと。
他者の選択に身を委ねる安堵感と引き換えに、ボクは自らの意志を手放していないか、深く問いかける必要があります。
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3. 私たち人間が持つ、たった一つの決定的な力
花とボクとの決定的な違いは何でしょう。
それは、自分たちの「意志」で動ける。コレかな。
ボクは咲く場所が気に入らなければ、自らの足で新たな場所を探すことができます。
この「意志」こそが、不毛に思える場所であっても自分だけの咲き方を定め、
差し伸べられた手が、真の目的地へと導くのか、それともただ美しい飾り物の花瓶へと誘うだけなのかを見極める力となるの気がします。
美しく飾ってもらえるならば、それはそれで嬉しい。
心の内に響く、静かに何度も話しかけるなにか。
周りの声や環境に流されるのではなく、
自分がどうありたいのか、
どこへ向かいたいのかを問い続ける。
ボクたちの「意志」は自分を育てようという呼びかけに応えることができるのです。
その先に、自分だけの道が拓けていきます。
ただ、その先というか道は開けているだけで、不毛なのかもしれない。
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うん。なんというか…。:未来へと思いを馳せる結び
花の生き様は、ボクに大切なことを教えてくれます。
咲く場所は選べずとも、咲き方は自らで決められること。
他者に選ばれる華やかさ。
それが必ずしも自分の望む自由と一致するわけではないこと。
そして何より、ボクには、自らの意志で人生を動かしていく決定的な力があるということです。
…けっこう優柔不断ですが…。
花は、ただその場で咲き誇ります。
ぼくは意志を持って自分の咲く道を選ぶことができます。
その選択肢があること自体が、僕たち人間が持つ最大の希望なのかも。
今日、ボクははどんな「意志」を育てるか?
そして明日、「きみは」どんな「思い」で咲きますか?
などと、ポエマーな記事でした。
ついでに。
今日9月の27日土曜日。蛹が羽化しようとしてました。
途中で力尽きてました。
あと少し。
くもり空でしたが、翔び立つチャンスがあったのでしょうが。。。
今目の前にチャンスがあります。
事実として動けるのですから、羽を動かすことができるのですから、羽を動かしてみましょう。
少なくとも君たちは飛べるはずです。
飛ぼう。
跳んで見よう。翔べるよ。
飛べ。